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2011年6月 9日 (木)

会うは別れの始め-2

  昨日の続きです。
  会うことが別れの始めということが何度か起こり、そのことに夜も寝られぬほど悩んだこともありました。でも、歳をとって、別れに対する耐性が増したのでしょうか。最近、別れることに対する苦痛が薄らいでおります。別れが訪れても平静でいられるということは、私という人間が薄情にできているとも考えられますが、若いころはかなり悩んだという経験がありますので、生まれながらの薄情人間でもないと思います。

  昨日、氣功教室が丁度終わった時に師匠が尋ねてくれました。私が半年ほど師事しているマジシャンの先生です。
  生徒さん達の求めに応じて快く師匠は幾つものマジックを披露してくれました。
  その不思議な世界に皆大喜びで喝采の声を上げておりました。
  素晴らしい師匠で、いつも言うように私の場合はどの分野でも師匠に恵まれた人生なのです。
  この素晴らしい師匠連との出会いは、強い「縁」からのもの、ということを教えていただきました。
  そうなのです!
  別れに対する耐性が強くなったのも、品川和尚から教えていただいた「縁(えにし)」のことを理解してからのことなのです。
  もし、この「縁」の深い意味を知らずにいたとしたら、今でも悩んでいたことは間違いありません。
  今も、別れが訪れようとしている人が何人かおります。
  幽・現、境を異にする死に別れは「縁」が切れることはありませんが、生き別れ、交流断絶では「縁」が切れる別れがあります。
  利害関係で……、誤解から……、些細なケンカから……、感情の縺れから等々別れの原因はいろいろありますが、これが「縁」が切れることに結び付くという恐ろしさはそれまでの生きざまを否定するようでもあります。
  ところが、このような別れにたいして動揺がほとんど無くなってきたということはどういうことなのでしょう。

  全ての人間が、死の数分前に脳の能力が全開になって、全ての事が理解できるようになると言われます。それは自分の死後の世界にまでも及ぶということです。
  だから、ほとんどの人間は死の数分前に、自分の人生の過し方を後悔するのだそうです。
  怖い話です!
  臆病な私はその時に備えて数本の蜘蛛の糸になってくれるよう少しでも善行を積もうと必死になっております。

  「縁」の切れることは、この後悔する旅立ちをもたらす要素の一つでもあります。だから、本来は別れることに動揺し、後悔し、嘆き悲しまねばなりません。別離に少しの動揺も感じないということは、もともと「縁」の無い人との交こりをしてきたことの証左なのです。
  私は「仲間」という言葉が大好きです。
  この言葉には「縁」の深さが裏打ちとして感じられるからなのです。だから、今仲間として思いを繋いでいる人々の一人とでも別れが訪れたなら、私は動揺し、嘆き悲しむことでしょう。でもそのような場面は、死別以外永遠に来ないであろうとも思っております。
  昨夜の仲間たちとの笑いや語らいは、一人になった後でも思い出して自然にホホが緩みます。

  今、悟りました!
  「縁」の絆をもつ人との別れは、無い!ということを……!

  師匠の国立演芸場の舞台に招待されました。
  明日です!
  嬉しくて、今夜は眠れそうもありません!!!
  そのせいなのか今夜のブログの内容は右往左往しております。
  ゴメンナサイ!
  いずれまた、このことは考えなければと思っています。もう少しまともな内容で……ね。
  ……お休みなさい!

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