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2008年7月28日 (月)

天賦の才

 当館の気功法に、無為功という功法があります。
中国人の師から功法の名をいただいたものですが、当教室で気功法の練習をするときは、必ずこの功法から始めています。
仙道の求める「道(タオ)」の本質はあくまでも無であり、空虚でなければならないとしたのは、老子でした。
「天地の間は、それなお橐籥(たくやくーふいご)のごときか。虚にして屈きず、動きていよいよ出ず」(第五章)・・・(ふいごの袋の中は空虚であるが、しかし無限の空気を送り出して尽きることがない。)
師は、私にこの老子の一文を示して、気功の世界の奥深さを示し、慢心することなく日々精進することを求めたのです。
私はといえば、生涯の趣味としている「能楽」の概念から「道」を知ろうとしてきました。
能舞台には、背景に鏡松というものが描かれております。
つまり、能舞台は鏡の世界で演じられるのです。
鏡の世界は無色透明であり、その意味では「無」であるといえます。
しかし無であるからこそ、無限のものの姿を写し出します。
鏡の世界は、万有を包容することが出来るともいえます。

 唯一、師が私を褒めてくれたことに、「万物斉同の志が見える」という言葉がありました。
ほかに褒めるところがなかったので、苦し紛れに考えてくれたものでしょうが、褒められるとすぐその気になる私はこの言葉を有難いものとして受け取りました。
その後、密教、古神道、レイキ等々と何にでも興味を持ち、かつ人生における出来事の全てをプラス思考で捉える私の性癖は、師のこの言葉の呪縛のせいだとも考えております。

 「無為を目指す者はまた、直感と以心伝心とを大切にしなければならない。」
これもまた師の云われた言葉です。
心を無為に保っておれば、「道」を備えた多くのことを感ずることが出来るというのです。
私はこの教えを心に留めて、「気功」の世界に携わっていきたいと願ってきました。
もちろん、未だ十分にはこの教えを実践できてはいませんが、日々心がけてはおりました。「道(タオ)」を備えた人とそうでない人とを見分けることができるように・・・と。

 九州の地で、驚くべき少女と出会いました。
無垢に生きながら、とてつもない能力を秘めた少女です。
私が、体調が良く、妙光錦を纏い、さらに朝の稽古が済んだばかりの充実した状態でも、その少女の能力に比肩できるだろうか・・・。
これが天賦の才というものなのだろうか・・・。
私は、舌を巻かざるを得ませんでした。
少女の人生を狂わせないために、何も言わないできましたが、心の興奮は抑えられません。
この時ばかりは、師の「無為であれ」という言葉を実践してきて良かったと思う気持ちが湧きだしてきました。
見つけることが出来たからです。
「名刺で割り箸を割ってごらん」と試してみると、初めてにもかかわらず、いとも簡単に割ってみせるのです。
素直さと集中力を持った少女なのです。

 これからどのような展開が起ころうとしているのかわかりませんが、「九州行き」に新しい要素が加わったことだけは確かなようです。

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