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2008年7月30日 (水)

幸を求めて

 今朝早く、初めての客を迎えました。
インターネットで当館の存在を知ったということで来られたのですが、かなり強引な方で、押しかけてきたという感じすらしました。
私は、朝は4時から修業に入り10時ごろまでかかるので、来館はそれ以降にしてほしいと頼んだのですが聞き入れてくれません。
かなり切羽詰った様子に根負けしてお会いしました。
お会いして、その事情が飲み込めてきました。
話を聞き、お会いして良かったとさえ思いました。

彼の名を仮に A さんとしましょう。
A さんに、今日のことをブログに載せますよ、とことわったうえで書いております。
A さんは現在重疾の病に冒されております。なおかつ、自ら経営する事業が難局にさしかかっているというのです。
おそらく、溺れるものは・・・の心境で来られたに違いありません。
彼は病気の施療とともに、もう一つの課題を持って来られたのです。
彼は、以前私がブログで述べた「死というものに、消滅・破滅という観念しかないならば、時間の経過そのものもネガティブ性に満ちているとしか考えられなくなってしまう。何故なら時間的経過によって誕生・劣化・病・死という時空をたどって行くのだから・・・。」という一文を読んでいたらしいのです。
その文の中で書いた「死とはネガティブ性をのみ持つものではない。」という私の真意をもっと知りたいというのです。
 A さんは、数時間話をし、施療をして帰っていきました。
納得して帰られたかどうかはさだかではありませんが、一つのきっかけは掴んでくれたようです。

 私は仙道を学んできました。
「老子」よりはどちらかというと「荘子哲学」に心引かれます。
荘子は、「人間は無限大の世界から生まれ、数十年のあいだ個としての意識をもつ存在となるが、死によってふたたび無限大の世界のうちに帰ってゆく。」として死を肯定します。
そしてまた「人間が生きているというのは、生命を構成する氣が集合しているということである。氣が集合すると生になり、離散すると死になる。もしこのように生死が一氣の集散にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか」(知北遊篇)と説きます。
人生のすべてを、そのままによしとして是認する態度は、我々が今存在する時空がネガティブ性に満ちている世界ではないと捕らえていることになります。

 同じ哲学の上に、老子も「無知無欲が人間の自然の状態である」と説きます。
「五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聞こえなくし、五味は人の口を麻痺させ、馬を乗り回して狩をする遊びは人の心を狂わせ、珍貴で得がたい宝は人の行いを邪悪にする。」とまで云います。
知識でさえも真理を捕らえるどころか、かえってこれを破壊してしまうとし、否定します。
このため老子は「学を絶てば憂い無し」「聖を絶ち知を棄つれば、民の利は百倍す」などと説きます。
真理の一面なのでしょうが、これではどうも人間文化の全否定となってしまう様な気もしてきます。
 現実に、病に斃れ、成業も思わしくないという人々に、全てを捨て去れということは出来ません。「迷惑」という事態が発生するからです。これこそが人間文化でもあります。

幸福の幸という文字は、土という文字二つを二本の「柱」で結んであります。
この柱こそ「文化」であると言えるかもしれません。
土を二つ盛ることは、古来土地の神を祭ることから転じ、天子が用いる玉の形をいい、名誉・栄達そして人品の高いたとえともされました。「圭」という文字にはそれだけの強い人間の思いが懸けられており、それを二つの柱=文化で結ぶことを幸福の意に用いる先人の知恵のスゴサ!
 私が、仙道ばかりでなく密教や古神道、その他の哲学にも心を捉われるのはこういうことだったのかもしれません。

私は A さんに、施療とともにある秘法を行いました。
今この時空の中で生きている彼が、ネガティブ性の感性をポジティブ性をもった人生感に変換できる一助となるよう願いながら・・・。

 

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